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本要寺の歴史 兵庫県 三木市 歴史 宝蔵 仏事 お寺 本要寺

       本要寺の歴史
  

      ●開山は鎌倉期
  

開山は鎌倉期 コメント
 日蓮宗の吉祥山本要寺は、もともと天台宗の寺でした。
花園天皇の御代(鎌倉時代)、正和四年(一三一五)に日蓮聖人の法孫、
魔訶一院日印(まかいちいんにちいん)上人が関西布教の途次に立寄られ、
住職と問答を行って勝ったために日蓮宗に改宗し、寺の名を本要寺といたしました。

 この日印上人を開祖として、日継、日厳を経て四世の日建の天文二十年(一五五一)に、
応永五年(一三九八)の火災で全焼した諸堂を再建しました。
五世日栖を経て、六世日モフ時に秀吉の三木城攻めがあり、またまた火災に遭いましたが、
幸運にも本堂だけは戦火を免れました。
この時、三木市内の寺院は、ことごとく焼かれています。
 天正八年一月、三木城が落ちると、秀吉は平井山本陣から本要寺本堂に移り、ここで
戦後の処理を行って、本要寺を三木町各宗十六ヵ寺院の主席に命じました。
そしてこの年のうちに庫裡の方も再建しています。

 七世の日祥以降は、日要→日恵→日元(寺門経営者I)→日善→日芳→
日正→日元(十代再住)→日進(宝永七年鐘楼建立)→日妙→日遼→日通→
日能(霊碑堂建立)→日実S→日暉→日褌→日感(天保四年妙見堂建立)→
日映→日鑑→日妙→日浄(宝塔建立)→日照→日真→日法(30)→日寿→
日栄(諸堂修築・鐘楼再建)→日浄(諸堂修理・庫裡改築)の順で、
現在の日温(小谷泰進)は三十四世になる由緒ある寺です。

 この間、江戸時代には、町の公民館的役割を果たす重要な位置にありました。

 現在の本要寺は境内が狭く、県道加古川―三田線に広い間口で面する寺としては
珍しい形になっていますが、これは現在の県道が元の境内であり、明盛商店街へと
参堂が出ていたものを、昭和二〇年に戦時の建物強制疎開で立ち退きになって
道路になってしまったからなのです。

      ●妙見さんに最上稲荷鬼子母神を祀る
  

妙見さんに最上稲荷鬼子母神を祀る コメント
 本要寺の、本堂内の左側には鬼子母神・門を入って右側には妙見菩薩を祀る妙見堂、
左側には最上位経王大菩薩の祠があります。

 日蓮聖人自身が神を崇められ、大切にお祀りされたことから、神を仏教信仰にとり入れた
もので、全国的にもご利益を受けようと信心される方が多いのです。

 鬼子母神は、もともと他人の子をとって食べる悪い神様でしたが、仏の教えに懺悔し、
正法に帰依し守護神となられました。日蓮聖人も法華経の守護神として崇め、
信仰を奨励されましたので、日蓮宗では信仰が広まっています。安産や、子育ての
神として、東京入谷の鬼子母神が有名ですが、当山では中山法華寺(千葉)の
諸願成就の鬼子母神も祀っております。

 子育て鬼子母神には、やはり法華経で善神となった十羅刹女がつきものですが、
当山の鬼子母神堂の天正十五年五月に寄進された十羅刹女のうち曲歯、華歯、
毘藍婆、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、奪一切衆生精気の八神と江戸初期に
福王甚兵衛内儀が寄進した藍婆が祀られています。天正十年といえば、秀吉が
陣を置いた二年後のことで、六世日モフ代です。

 妙見菩薩は北辰菩薩、尊星王とも呼び、北斗七星を除災招福の尊星として
神格化した道教から入ってきた仏教信仰です。日蓮聖人は北斗七星を特別な星と
見て崇められており、国土守護や病気平癒を祈願する法を北斗法と称して妙見信仰を
日蓮宗では大切にしています。本要寺の妙見は能勢の妙見さんで、交通安全や進学等の
祈願が多く、堂は天保年間に建立されたものです。堂内には小さな木彫の三十番神も
祀られています。三十番神とは、毎日順番に一ヶ月三十日の間、国家と人々を守る神様の
ことで一日=伊勢、二日=石清水、三日=賀茂といった具合に三十日まで全国三十の
祭神を祀るものです。

 最上位経王大菩薩は、最上位稲荷です。神様としての京都伏見、禅宗系の愛知豊川、
日蓮宗系の岡山高松が我が国の三大稲荷です。高松稲荷が『最上さん』で親しまれる
経王大菩薩です。本尊は慈母の姿で左肩には稲束を振り分けに担い、右手には鎌を持ち、
宝珠をくわえた白狐に乗っておられます。お姿から美の神とも五穀の神、海運の神とも
いわれ、勤労の尊さと、美しい心の養成を悟されています。

      ●なぜ制札を立てたか
  

なぜ制札を立てたか コメント
羽柴秀吉の善政

 羽柴秀吉が播州三木城の別所長治を兵糧攻めで攻略したあと、本要寺に本陣を
置き、戦火から逃げ延びた町民を呼び戻すために、なぜ免租の制札を立てたか…?

 難攻不落を誇り、秀吉をさんざん手こずらせた堅固な地勢が気に入り、この三木を
将来の自分の根拠地にしたいと考えたからです。

 ところが、名軍師黒田官兵衛は姫路の小寺氏の出であり、天下をとるには、海に
近い姫路のほうが適していると、三木を捨てるように進言しました。結果的に、その後の
城づくりは平和な時代の平城がほとんどであり、姫路を進言した官兵衛の未来を見る目は
確かだったといえるでしょう。

 秀吉が自分の将来のためを考えて立てた制札は、三木復興に役立ち、それが三木を
鍛冶のまちとして現在までにつながったことになります。また、江戸時代にも大きな効力を
発揮した制札であり、三木城主別所長治を滅ぼした憎い仇役であるはずの秀吉が町民に
あがめられ、本要寺において、ひそかに「太閤まつり」と呼ばれる夏まつりが行われるように
なったわけで、当の秀吉自身も、思わぬ善政の効果にあの世で苦笑いをしているかも知れません。

      ●死を賭して義民が直訴
  

死を賭して義民が直訴 コメント
ピンチを救った味噌蓋

 秀吉の制札で、地子免許(赦免地)になった三木の町も、徳川家綱(四代将軍)の
延宝五年の検地で赦免取り消しというピンチに立たされました。十ヶ町の庄屋、町年寄は
連日連夜、本要寺に集まって評議を重ね、ついには町民大会に持ち込みました。

幕府直轄の天領だけに打開策は直訴しかありません。その直訴は天下のご法度、
打ち首覚悟となれば、誰が江戸に向かうのか人選も暗礁に乗り上げました。

 その時に死を覚悟して名乗り出たのが、平田町大庄屋岡村源兵衛と
平山町年寄大西与三右衛門の二人でした。延宝六年、本要寺で町民と水盃を酌み
交わした二人は決死の東下りをいたしました。

 幕府重役との折衝も「根拠となるものがない」との理由で相手にされず、いたずらに日は
経つばかりでした。

 一方、三木の方では本要寺の納屋の味噌桶の蓋が、なんと秀吉の花押入りの制札で
あることがわかり、雀踊りした人々は、早飛脚で江戸の二人に制札を届けました。

 年の瀬も押し迫った雪降る日に、老中酒井雅楽頭に門前払いをくった二人は、ついに
最後の手段として、屋敷の前で断食の座り込みに入り、三日三晩ねばり続けたのでした。

 この決死の情熱は幕府を動かし、十二月二十四日、特別詮議で「これまでどおりでよい。
両人については罪に問わない」という温かい申し渡しを致しました。

 翌延宝七年正月に熱狂的な歓迎の中を故郷に足を踏み入れた二人ですが、
岡村源兵衛は天和三年六月二日、大西与三右衛門は元禄十二年十二月七日、
人々に感謝されながら亡くなっています。

 宝永四年二月一日、本要寺境内に顕彰碑が建てられましたが、碑文は
儒者福田貞斎が書き、後世にその功を伝えています。

 また本要寺のことを俗に「味噌蓋寺」と呼んでいたそうです。

      ●三木市夏の義民祭
  

三木市夏の義民祭 コメント
そもそもは太閤まつりでスタート

 三木市の夏の義民祭は、二百七十年も昔から毎月七月十八日に本要寺で開かれている
由緒ある市民の行事です。

 江戸直訴の岡村源兵衛、大西与三右衛門両氏の遺徳を偲んで続けられているもの
ですが、もともとは、ひそかに豊臣秀吉を祀ることから始まっているのです。

 あの江戸直訴で、制札や古文書がどんなに大切なものであるかを身を持って体験した
町民たちが、元禄七年(一六九四)に制札や重要文書を保管し、太閤さんを祀る土蔵を、
秀吉や義民にゆかりのある本要寺境内に建てました。時は徳川幕政下、豊太閤を
祀ることは憚られましたので、むしろ家康の位牌を主として、祀ったのでした。

 秀吉の命日は八月十八日、家康の命日は四月十七日、そこでその中間をとって
六月十七日、十八日(旧暦)を祭日とする苦肉の策で、町民はひそかに「太閤まつり」と
呼んでいました。

 宝永四年(一七○七)には、二人の義民を顕彰する碑が宝蔵のそばに建立され、
その慰霊もこの日に行われることになったのです。新暦の現在、七月十八日午前十時から
義民祭法要と年一回の宝蔵虫干し(一般公開)が行われています。

      ●義民顕彰の歌碑と句碑
  

義民顕彰の歌碑と句碑 コメント
 本要寺本堂の左側境内には、三木市有宝蔵義民の碑、別所長治公供養碑等が
ありますが、昭和五十一年、もうひとつ碑が建てられました。同じ台石の上に郷土の歌人、
故原津玖紫先生の歌碑と、京都の俳人、故鈴鹿野風呂先生の句碑が仲良く
立てられています。

 短歌は
  『墨色のうすれたれども秀吉の制札
    花押のあとたしかなり』
 俳句は
  『実南天白壁に照る御宝蔵』

 原先生は、これ以外にも
  『占領の日に秀吉は民らの借銭
    一切免ずる制札立てき』
等、義民にまつわる歌を遺されています。

      ●本要寺のあれこれ話
  

本要寺のあれこれ話 コメント
◇…秀吉が三木城攻めのあと、本要寺に陣を置き、自刃した別所長治らの首実検を
   したことは、司馬遼太郎の「播磨灘物語」にも書かれているが、あの西郷隆盛も
   本要寺に寄っている。京へ上る途中の隆盛ら薩摩の官軍は、本要寺で一服して、
   高木の一柳藩に陣屋を貸してほしいと使者を出す。家老が断ったので、
   より抜きのもの数人で再談判させたところ、驚いた家老が丸坊主になって
   謝罪したというのである。

◇…大正六年、本要寺に隣接していた芝居小屋「戎座」が火災で焼失した。山門の
   右側ひさしにいまも黒く焼け焦げが残っているのはその時のものである。
   三十二世日栄は、それより少し前の同年九月に死去しており、三十三世日浄
   (小谷恵進)が後継になったばかりの時である。

◇…本要寺の玄関、庫裡等は昭和七年に改築されたが、それ以前の玄関は二階建て
   であった。改築の工費は、なんと四千五百円。それも本堂の天井板張り替えも
   含めての値段である。釈尊降誕会の翌日五月九日から着工し七年の降誕会に
   落慶するという一年がかりのものであったが、この年の七月、三木の大水害があり、
   死者三十三人が本堂に収容されている。

◇…昭和二十年の強制立ち退きをする前の本要寺境内には鐘樓があった。つり鐘は
   太平洋戦争の武器に変身するため、本堂脇の半鐘とともに赤ダスキをかけて
   招集された。つり鐘の消息は以後わからないが、半鐘の方は戦後も相当経ってから
   栄町の警鐘台で御用済みのままぶらさがっているのが発見され、昭和四十五年の
   日蓮聖人生誕七百五十年祭に無事里帰りした。

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